薔薇戦争について

薔薇戦争って何?

薔薇戦争って何?

 イギリスとフランスは、百年以上に渡って争い続けた時代があります。これが百年戦争と呼ばれ、戦いの結果、現在の国境が固まりました。
 この戦いの中で、序盤は優勢だったイギリス軍も次第に戦う目的を見失い、フランス西部の保持を望む王家と、フランス北東部との関係を維持したい貴族たちとの間に、軋轢が生じます。
 この軋轢が、百年戦争終息後もイギリス国内に残り、赤い薔薇の紋章で知られるランカスター派と、白い薔薇の紋章で知られるヨーク派に分かれ、30年以上に渡って内乱が続きました。この内乱が薔薇戦争と呼ばれます。

ランカスター派って何?

ランカスター派って何?

 赤い薔薇の紋章で有名なランカスター派とは、主に王家を主軸とした一派です。国王ヘンリー6世の王妃マーガレットは、フランスのアンジューから嫁いで来ました。この王妃がヨーク派と対立したことが、長い内乱へと繋がっていきます。
 彼女はかつてのアンジュー帝国の再興を求め、息子エドワード王太子にその役目を託しています。その為に派閥の強化を進めますが、この事が汚職の温床ともなりました。

ヨーク派って何?

ヨーク派って何?

 白い薔薇の紋章のヨーク派とは、王家の一族であるヨーク公リチャードを柱とする一派です。当時、商工業の発達したフランドル(フランス北部~オランダ)地方との関係強化を望み、その事が彼らの経済基盤の維持・強化に繋がっていました。
 ヨーク公はそうした貴族等の支持を得ていた為、マーガレット王妃からはエドワード王太子の存在を危うくする存在、と見られていました。こうして両者の対立が生じます。


イギリスってどんな国?

イギリスってどんな国?

 既に紀元前のローマ帝国時代は、ロンドン(ロンドニゥム)に城郭が形成されており、ローマ式の統治がなされていました。その後ローマ帝国は東西に分かれ、西ローマ帝国は先に滅亡します。
 これに前後して、ヨーロッパにはフランク王国が成立していました。前期をメロヴィング朝、後期をカロリング朝と呼びます。このフランク王国が三つに分かれて、今のフランス・ドイツ・オランダなどの国々に繋がっていきます。
 イギリスではこの時、ドイツ方面から渡ってきたアングロ・サクソン人と、デンマークから渡ってきたデーン人による王朝が成立していましたが、フランス諸侯のノルマン公が海を渡り、征服(ノルマン・コンクエスト)してしまいます。こうしてフランス王の臣下であるノルマン公が、イギリス王を兼ねる状態が生じました。この王朝が現在のイギリスに繋がっていきます。

イングランド王はフランス人?

イギリス王はフランス人なの?

 イングランド王はフランスのノルマンから渡ってきましたが、そのノルマン公領は同じフランス諸侯のアンジュー伯に相続され、アンジュー伯は元王妃の公領であるアキテーヌ公領も手にします。こうしてフランス諸侯でありながら、フランス王よりも力を持ったアンジュー帝国が形成されるのです。
 つまりこの時のイギリス王の領土は、現在のイギリスとフランス西部を加えた広大なものでした。こうしたイングランド王は当然のようにフランス語を話し、公用語としても、ラテン語に変わってフランス語が多く使われるようになっていきました。イギリス語が広く使われるようになるのは、薔薇戦争期のエドワード4世の時代以降です。この時代に印刷技術が発達する事で、次第にイギリス語がフランス語に代わって主流となりました。

百年戦争って何?

百年戦争って何?

 1328年、フランスでは成立以来のカペー朝が途絶え、新たにヴァロア朝が成立します。この時、フランス王となったフィリップ6世と争ったひとりの貴族が、イングランドへ亡命しました。彼はイングランド王エドワード3世に「あなたもフランス王の資格があるのです」と告げます。
 母方がカペー朝の血を引いていたエドワード3世は、この話に乗る形でフランスとの戦争に踏み切りました。当時のイングランド王はフランス諸侯でもある為、フランス王からの干渉を受け続けていました。自らフランス王となる事で、この状態から脱したい思いもあったのでしょうが、戦争は長引き、途中で停戦を繰り返しながら100年以上続く事となります。