朱偉に媚薬と称してハチミツを売りつけようとしてから数日後。
太星は店番をしながら跳兎門外の人通りに視線を走らせていた。
「朱偉に謝れって言われてもよー……」
絹糸を必ず値切ろうとする常連の顔を思い出す。
――今度朱偉君に会ったらちゃんと謝らなくちゃ駄目だよ?
朱偉があまりにもわかりやすかったからついからかってしまった、というのが太星の本音である。
おそらくは初恋、しかも一目惚れだろう。そうでなければあそこまであからさまに好意を表すのも難しいはずだ。
それがわかるのは、実を言えば太星自身も恋愛に関しては裏表のある駆け引きが得意ではないせいだ。
行商で多くの貴族や商人の駆け引きを見ているのに、こと自分のことになると朱偉と同じになる自信はある。
謝りたいとは思う。とは言え、相手がその機会を与えてくれるか。
露店通りはいつもどおりの雑多な賑わい。平和なものだ。
頭をがしがしと掻いて品物の整理を始めようとしたときだった。
見覚えのある黒い頭が店の前を横切った。
「おい! おい、朱偉っ」
太星は店も放り出し、その影を追う。影は振り返った。
あからさまな嫌悪の色を表情に乗せ、手にしていた槍を構える。
「おわっ、お前、此処、露店通りだぞ!? 武器はしまえよ、武器は!」
「言っただろ、太星は敵だって! 気軽にオレの名前を呼ぶなよな!」
槍の矛先を突きつけたまま朱偉が噛み付くように言う。
「あーあーあー、それに関してはだな、兄弟。オレが悪かったことを心から謝罪しようとだな」
「お前はオレの敵だ。兄弟なんて言われる覚えなんかない!」
朱偉は武器を構えたままだ。敵意むき出しとはまさにこのことだろう。
しかも露店通りでこれだ。次第に周囲に人が集まってくるのがわかる。
「とにかくな、朱偉。武器は引いてくれ。オレは善良な商人だから丸腰なんだ」
「太星のどこが善良だよ!? 騙してオレの全財産をとろうとしやがって!」
「言いたいことは多くあるが、謝る。全面的にオレが悪かった。だから武器を――」
「謝罪なんて今更遅いんだよ! 露店通り中に太星がいかに悪徳商人か知らしめてやる!」
ぐ〜……。
朱偉の啖呵の最中に不意に緊迫感を破る音が響いた。
途端に朱偉の顔が赤くなる。
朱偉のお腹の音だと太星が気付くのにそう時間はかからなかった。
「……腹減ってるのか、朱偉?」
「減ってない! 太星の前で減ってるわけないだろっ」
「いや、誰の前って問題じゃねえような……」
「減ってないよ! オレのことより太星の悪行を暴くことのほうが先決だろう!?」
ぐ〜……。
朱偉が啖呵をきるたびにお腹の音が鳴る。おそらくは腹から声を出していることに関係してるだろう。
太星はやれやれと溜息をついた。
「オレの悪行を暴くのは後でもできるだろう? 先に飯にしようぜ」
「やだ。オレ……金持ってないもん」
「誰がお前に払わせるって言ったよ。オレが詫びるんだからオレが払うべきだろ?」
「だっ、誰が太星に奢られるなんて……っ」
「腹が減ってるときは金があるやつにたかるのがいいんだよ。何食いたい?」
「だから、太星なんかに奢られるのは……」
「希望がなきゃ蒸し饅頭でいいな? おやっさん、蒸し饅頭を四個くれ」
太星が買い物を始めると朱偉は渋々と槍を引き、構えを解く。
買った四つの蒸し饅頭のうち二つを朱偉に渡すと太星は自分の店へと歩き出した。
「また何か売りつけるのかよ」
太星の後を歩きながら朱偉が警戒に満ちた声を上げる。
「金のないやつには売らねえよ。立って食べる趣味がないならこっちに来いよ」
「本当だな? 本当にまた売りつけたりしないな?」
「信用ガタ落ちだなあ、本当だ。売ったりしねえから」
結局太星は何度も朱偉に言い含め、朱偉を露店に座らせることに成功した。
朱偉は露店に座り込むと同時に蒸し饅頭に齧りつく。よほどお腹がすいていたらしい。
太星が一つ食べ終わる頃に朱偉は二つともぺろりと平らげていた。
「気持ちよく食べるなあ、お前」
「……食事にお金がまわせないんだ。でも太星に礼なんて言わないからな」
そう言いながら朱偉は太星の露店の商品を眺める。
「オレの知らないものばっかりだ。このうちどのくらいが偽物なんだ?」
「九割はホンモノだ! さすがにオレでもそこまで悪い商売はしねえよ」
「でも惚れ薬はまだ置いてあるんだろ?」
「……ちゃんと蜂蜜として売ってるよ」
太星が二つ目の蒸し饅頭を食べている隙を見て、朱偉は商品を手に取ったりし始めた。
裏返してみたり、叩いてみたり、輝きを確認したり。
こいつは意外に見る目を持っていそうだな、と太星がその様子を眺めていると朱偉が一つの瓶を手に取った。
「これは偽物だろ? 銀に見せてるけど、重さが全然違う」
「お、わかるのか、お前」
「当たり前だ。こういうのを騙して売るんだろ?」
「……まあ、時々はな」
「本当にあくどい商売してるよな、太星ってさ。いいものだって揃ってるのに」
朱偉は言葉を続けながら、服飾品を引っ張り出してきて品定めをしている。
「あんまり広げるなよー。片付けるの大変なんだからさ」
「偽物がないか、オレが確認してるんじゃないか。文句を言うってことは偽物ばっかりなんだろ」
「だから、九割はホンモノだ! 騙すっていうか、適当なものを売るのはある種の冗談で……」
「オレは悪趣味な冗談は嫌いだよ」
むすっとした声で朱偉は言うと一つの首飾りを取り出した。
宝石の部分を太陽に透かしてみたり、鎖の部分を丁寧に擦ってみたりする。
「それは悪いがホンモノだぞ。西の職人の手作りでだな――」
「幾らで売ってるのさ」
「そいつは細工もんだ、金貨二枚ってとこだな」
「ふ〜ん」
朱偉は考えるように首飾りを摘んで、もう一度検分する。
「これなら金貨四枚で買ってもらえると思うけどな」
「は?」
「聞こえなかった? 金貨四枚で買う好事家がいるってば」
「これだけ派手な細工だぜ? 昊の国じゃ金貨二枚がいいところだろ」
「嘘だと思うならついてきなよ。オレなら金貨五枚で売れるね」
自信たっぷりな朱偉の言葉。太星は腕組みをする。
朱偉の持っている首飾りははるか西の職人の一品モノだ。
実際昊の国でなければ金貨六枚程度の価値が出てもおかしくはない。
だが、昊の国は独自の文化を持っている。衣食住、全てに関してそうだ。西の方とも交流が多いわけではない。
そういう事情で、昊の服装では西の装飾品は華美になってしまうことが多いのだ。
勿論、装飾品によっては昊の国の服が引き立つこともあるが、かなり稀だ。
昊の国では服飾雑貨は売れない、と太星は諦めている。
それを朱偉は商人でもないのに金貨五枚で売ると言う。
確かに朱偉は昊の国でのやり方は太星より詳しいだろう。または、騙されたことに対する意趣返しか。
どちらにしろ、どうやって朱偉が売り込むのか太星には興味があった。
「じゃあ、任せよう。金貨二枚以上で売れれば朱偉の勝ちだ」
「ふん、跳兎門外を知り尽くしたオレが負けるはずないよ。ついてきなよ、太星」
朱偉は自慢げに笑うと首飾りを丁寧に持ち歩き出す。
太星は軽く肩を竦めると朱偉の後を追った。朱偉は振り返って口を開く。
「物には需要と供給がある。太星だってそのくらいはわかるだろ?」
「商人だからな。その首飾りに需要があるって朱偉は言いたいのか」
「まあね。需要っていうのは待ってるだけじゃ駄目なこともあるからさ」
「要するに押し売りか? オレはそういう手は苦手なんだが……」
「失礼だな、押し売りじゃないよ、提案だ。そもそも店舗通りの店が露店通りの怪しい店なんて覗くわけないだろ?」
「怪しい店っつーのはオレの店のことかよ……まあ、褒め言葉だけどな」
「太星の店なんてよっぽど好奇心旺盛なヤツじゃなきゃ覗かないだろ。
または姉ちゃんみたいに目的が決まってる人間か」
太星の店で決まって絹糸を値切る相手を思い出す。確かに彼女が立ち止まったのは絹糸が理由だった。
つまり朱偉は客の新規開拓を提案しているのだろう。一考する価値はありそうだが……。
「此処の店。中に入るよ」
朱偉が立ち止まったのは店舗通りの呉服店だった。通りに面した飾り窓に綺麗な服がかけられている。
昊の国の貴族や金持ちが着るような服だ。
「ちょ、ちょっと待てよ、朱偉」
「なんだよ、太星。怖気づいたのか?」
「そーゆーわけじゃねえけどさ……ここの店に首飾りを持ち込んでも」
「だから見てろって言ってるだろ」
朱偉は自信満々に店内に入った。太星も半ばやけになり朱偉の後に続く。
店から店主が不審げに男二人を見て出てきた。
「何の御用でしょうか。服を買いに来たようには見受けられませんが……」
「表の服を拝見しました。やや首元が寂しいように思えまして」
こういうときの朱偉の言葉遣いは丁寧だ。太星は内心舌を巻く。
「はあ、確かにあれでは少々寂しいと考えてはおりましたが……」
「実は私共は服飾雑貨の店を開いておりまして。よろしければ店の宣伝も兼ねてこちらを飾っていただければと」
朱偉はそう言って首飾りを差し出す。店主は首飾りを検分してから服とあわせてみる。
太星が驚いたことに、その首飾りは服に似合っていた。
いや、服をさらによく見せると言ったほうがいいかもしれない。
店主と朱偉が「いいですな」「この部分の色に映えて」などと言っているのを聞きながら、朱偉の観察眼に脱帽する。
朱偉はこの通りを何往復もしてこの服の色や形を記憶していたに違いない。
そうでなければ太星の店の多くの首飾りの中からこれ一つを選び出すことはできないはずだ。
「で、こちらはいかほどのお値段で……」
「ええ、通常は金貨八枚で売っております」
さらっと言う朱偉に太星は思わず目を見開く。
さすがにそれは吹っかけすぎだろう、と口を挟もうとしたとき、朱偉の言葉が続いた。
「西方の国の名の知れた細工師の一品物でして。
ですが私共の店の宣伝を此処でさせていただく意味もございます、金貨六枚でいかがでしょう」
「六枚は……少々高いですな。店舗通りでの宣伝費ということでしたら金貨五枚で」
「ごもっともでございます、では金貨五枚でのお取引を」
そうして朱偉と太星が店を出たときには朱偉は金貨五枚をしっかりと手にしていた。
「ま、ざっとこんなもん。はい、これ」
朱偉は太星の手に金貨五枚を乗せる。
「オレの勝ちね。これでさっきの蒸し饅頭はなかったことになるだろ?」
「……お前、蒸し饅頭の恩返しにしちゃ金額がでかすぎるだろ……」
「恩返しなわけないだろ!?太星はオレを騙したんだから、奢るくらいは当然じゃないか」
「オレもそのつもりでいたンだが」
どう考えてもこれは朱偉の恩返し以外の何者でもない。
太星は朱偉に金貨を一枚弾いた。
「朱偉の取り分な。実際、金貨四枚で売れなきゃあれは赤字だったんだ」
「別にオレは取り分がほしいわけじゃ」
「お前の勝ちだから持ってけよ。また協力してくれりゃ、もっと取り分多くするけど?」
「……誰が太星の協力なんてするかよ!でも金貨はありがたく貰ってく。先月の塾費と書物代欲しかったんだ」
「お前、本ばかり買わねえで、少しは飯も買えよな」
「また太星にたかるからいい!」
朱偉はそう言うとくるりと太星に背を向ける。太星はにやにや笑って朱偉を見た。
「お? お前、オレのこと許してくれたのか?」
「誰がっ! 太星はオレの敵だ、ずっとずーっと敵だからなっ」
朱偉は噛み付くように叫ぶと跳兎門外を走っていく。
太星は手に残った四枚の金貨を握って苦笑いをした。
「素直じゃねえよな、互いによ」
朱偉の背中は確かに嬉しそうに太星には見えた。
―終―
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