宮廷というのは広いように見えて、案外と狭いところだ。
そもそも重要な部屋というのは固まっている。
後は各貴族の私室となるため、通る道筋は自然何通りかに限られてくる。
そうなると嫌な相手とすれ違うことも多い。日常茶飯事だ。
劉瑯は向こうから歩いてくる人影を見て、微かに眉根を寄せた。
だが、すぐに微笑むのが宮廷の流儀だ。こちらの心情を悟られるようでは下の下。
「これは洪惇殿、ご機嫌よう」
劉瑯とすれ違おうとしていた相手は第二級武官、洪惇。
劉家とは因縁の家柄であり――何よりも「羽兎を殺す」と宣言した相手。
泰斗から真顔で伝えられたとき、正直劉瑯はまずいことになったと思ったのだ。
羽兎と羽兎の娘は劉瑯にとって数少ない切り札の一つだ。現状では劉家は洪家に負ける。
だが羽兎さえいれば形勢が逆転できる。
だからこそ内密にしてきたつもりなのだが……洪家に先手を打たれてしまった。
どこで情報が漏れたかはわからない。だからこそ余計に忸怩たる思いを抱く。
一方の洪惇は劉瑯を出し抜いた自覚があるのだろう。にやりと笑みを浮かべうわべだけの礼をした。
「御機嫌よう、劉瑯殿。よい天気で何よりだ」
「貴方にお会いしましたら、雲ってきたようですがね」
「これだけよい天気を曇りなどという劉瑯殿の気持ちがわかりませんな。清々しい天気ではないか」
実際は宮廷の内部にいると天気の変化などわからない。
雨が降っているかもしれないし、相手の言うとおり綺麗な晴れかもしれない。
そのあたりは挨拶の常套句だ。
「私もまったく洪家のことはわかりませんね。
わかるのは不都合なものは物理的に消す、その品のないやり口だけです」
「直接手を下さずに消す、劉家には敵いませんよ。
……やはり劉瑯殿の耳には入っているようですな。泣きつかれましたか」
「彼が泣きつくような性格とお思いですか?
怒鳴り込むというのを懸命に押さえたのは私ですよ、感謝をしていただきたいものです」
「それは大変にありがたい。そのようなことをされたら抜刀しているところでした」
「……本当に貴方は気品というものがありませんね。兄君や妹君を見習ったらいかがですか」
「兄君や妹とはどうやら素地が違うようでしてね。これが自分の役目ゆえ」
「なるほど、そうして貴方が物理的に消していかれたのですね。
まったく品のない。それを黙って見ているご兄弟もご兄弟ですが」
「……自分のことをとやかく言われるのはかまいませんが、兄弟のことを言われる覚えはありませんね。
劉家は口が悪いというのは本当のことのようだ」
「失礼な上に下品な物言いですね、洪惇。私は本当のことを申し上げているだけですよ?」
劉瑯は一歩、洪惇へと歩み寄る。
「武官とは言え、貴族らしさは必要です。しかも貴方は第二級武官。多くの武官の手本となるべきお人です。
物言い、仕草、対処の仕方や他人との会話、全て部下は貴方を観察していますよ。
そして――化けの皮がはがれるのを、待っているのです」
確かに今は洪家と劉家が二大流派だがいつそれが覆されてもおかしくない。
貴族の家柄などそんなものだ。他人の足を引っ張り合い、上手く対応できない者が落ちるのだ。
「……第二級文官の貴方に言われたくはありませんが。
そうやって化けの皮を剥いで来た経験からの忠告であれば、心から礼を申し上げましょう」
洪惇も洪家の人間だ。そのあたりは実感として心得ているのだろう。
不敵な笑みで劉瑯を迎え撃つ。劉瑯は笑顔を崩さない。
「私の経験などではありませんよ。
今までの歴史に基づいた、貴方のこれからの人生……とでも申し上げましょうか。
貴方が失脚されたらきっとご兄弟にも影響がでるでしょうね。
第二級武官ですと降格するのも難しいでしょうから、貴族位剥奪でしょうか。――たとえば、ですよ」
劉瑯はすっと声を潜める。
「皇帝陛下のご病状の悪いときに、陛下の待ち焦がれている羽兎を抹殺しようとしていることがわかったら……
どうなるでしょうね?」
「……真実は時に告げぬほうがよいことがありますよ、劉瑯殿」
「それを判断するのは少なくとも貴方ではありませんよ、洪惇殿。決めるのは皇帝陛下、ただお一人です」
洪惇は口を噤んだ。
洪惇は羽兎がどちらの太子を選んだのか知っている。知っているからこそ羽兎を殺そうとしているのだ。
だが、後継者を早く決めたい病床の皇帝がどう思うか。
劉瑯は内実のことを知らぬわけではないが、こちらは羽兎が切り札なのだ。
羽兎も羽兎の娘も守りきる必要がある。
「しかも羽兎は瑞獣です。初代皇帝に建国を勧めた縁起のよい獣ですよ。
それを殺すのは昊の未来を殺すことと同様ではありませんか?」
言葉を重ねると洪惇は苦々しい顔になった。洪惇も昊の貴族。羽兎の伝説を知らぬわけではない。
劉瑯は後ろで手を引いているだろう人物を思うと、これ以上洪惇に言うのは時間の無駄だろうと判断する。
「洪家を守るのであれば己の身を改めることですよ、洪惇殿。
もっとも私が言わずとも聡い貴方でしたらそのくらいのことは――」
「そのくらいにしておいていただけませんか、劉瑯殿。
上官がやり込められる図というのは見ていてなかなかに辛いものがあるんで」
不意に飄々とした声が劉瑯の声を遮った。劉瑯と洪惇は声のしたほうへ目を転じる。
洪惇の背後から歩いてきたのは、第三級武官、燕尭だった。
腕はとにかく立つ。おそらくは貴族武官で燕尭に敵う者はいないだろう。いや、昊国内に存在するかも怪しい。
しかも戦略眼も的確で、沈着冷静。武官としては非の打ち所のない人間、
というのが劉瑯の燕尭に対する印象だった。
それなのに未だ第三級武官なのは燕家があまりにも権力争いと無縁だからだろう。
宮廷内で劉家にも洪家にもついていないのは燕家だけかもしれない。
つまり第三級武官という地位は家柄で手にしたものではなく、純粋に実力で勝ち得た地位なのだ。
何度か劉家につくように言ったこともある。そのたびに燕尭は辞退し続けた。
おそらく洪家も同じようなことをしているのだろう。洪惇の視線がきつい。
「部下に庇ってもらっても嬉しくはないんだが、燕尭?」
「おや、それは失礼致しました、洪惇殿。
劣勢と見受けられましたので、事情はわからぬまでも加勢をと思ったのですが、いらぬ気遣いでしたか」
口調こそは丁寧だが、洪惇を敬っていないことは劉瑯でもわかる。
だからこそ劉瑯も燕尭という人間をどう扱うか、迷うところでもある。
「……てっきり、貴方が洪家についたのかと思いましたよ、燕尭。相変わらずどちらにつく気にもなれませんか?」
「こればかりは申し訳ありませんが。俺は家同士の戦いよりも実際に武器を握った戦いのほうが得意なもので」
「今のままですと貴方の実力は埋もれるばかりですよ。不甲斐ない上官を庇うような性格でもないでしょうに」
劉瑯が言うと燕尭は屈託なく笑った。
「いや、ばれていたら仕方が無い。そういうわけで俺は家同士の争いは遠慮させていただいています。
勿論、上官には従いますがね」
「……燕尭、仕事を増やす。俺の部屋へ来い」
不機嫌をあらわにして洪惇は歩き出す。
燕尭は「はいはい」とおおよそ貴族らしくない返事をすると洪惇の後を歩き出す。
「燕尭、もう一度聞きましょう。このまま燕家が落ちぶれていってもよろしいのですか?」
劉瑯が声をかけると燕尭は振り返った。迷うことなく口が開かれる。
「燕家はもう俺しか残っていませんからね。潰れようがかまいません。
家のことに此処まで固執する貴族たちにも正直飽きてますし、それに」
劉瑯に背を向けた燕尭は劉瑯と洪惇に宣戦布告でもするような口調で言った。
「兎の一匹や二匹で国を挙げての大混乱。国民ではなく兎が皇帝を決めるような国は、じきに滅ぶと思いますよ。
――馬鹿げている」
劉瑯も洪惇も何も言えない。
瑞獣の真っ向からの否定。それは羽兎を利用しようとしている劉瑯よりも酷薄に聞こえた。
誰も何も言わない。ただ、廊下に燕尭の規則正しい足音だけが響いていた。
―終―
|