それは慧が宮廷へ納品物を届ける仕事を始めてから少しの後のこと。
だいぶ宮廷内の地理も覚えた慧は、その容姿のせいか、堂々と歩いていれば貴族に見咎められないことも気付いてきた。
「……無用心にすぎるな」
他人事だからこそ気付く宮廷の穴。このことにどのくらいの者が気付いているのか。
慧には、関係のないことだ。かえって好都合かもしれない。
だからこそその日、慧は納品を終えてからまっすぐに戻らず、宮廷内を歩く。おおよその地理を覚えた後、
今度は表へと出た。宮廷の建物の外は広く塀で囲まれている。この塀が晏都と宮廷を隔てている。
知りたかったのは塀の抜け道だ。基本、宮廷の門は番兵が立っている。それをやり過ごし、
宮廷に忍びこむ方法を知る必要があった。
建物の脇からゆっくり歩き始める。人の気配は皆無だ。おそらくこんな所から忍びこむ人間がいるとも考えないのだろう。
とは言え、こんなところを歩いているのがばれれば、適当な言い逃れを考えなければいけない。
いや、迷子になったでも通用するだろう。これほどまでに緊張感のない宮廷ならば貴族は疑いも持たないはずだ。
「……馬鹿げた話だ」
思わず漏らした声に、不意に返答があった。
「何が馬鹿げた話だ?」
背後からの鋭い声。慧は振り返る。そこには一人の貴族の姿があった。
近づいてくる気配など感じなかった。そして、今も気配は感じない。思わず慧は眉を寄せて相手を観察する。
服装からして武官ではないだろう。だが帯刀している。そして自然体でいながら気配を消す技量。
相手の貴族も慧を観察しているのがわかる。互いの間に緊迫した空気が流れる。
先に口を開いたのは貴族のほうだった。
「貴族ではないな。お前のような顔は見たことがない。こんなところで何をしている?」
鋭い声。慧は反応を考える。
この貴族は他の貴族とは勝手が違う。――どう対応すべきか。
泰斗が怪しい人影を見つけたのはたまたま跳兎門外へ視察に行った帰り道だった。
番兵くらいなら見逃してくれるが、宮廷内を堂々と歩けば誰に何を言われるかわからない。
特に劉瑯になど見つかったら最悪である。小言は半日続くだろう。
ゆえに正規の門は使えずに、泰斗は宮廷の外を回り、自分だけが知っている抜け道を使うことにした。
幼い頃から使っていて誰にも見咎められていない抜け道だ。宮廷警備は甘いと痛感させられる。
「……ありがたいことはありがたいが、貴族武官は仕事をしているのか?」
玉砂利が敷き詰められたそこを静かに歩くのも慣れた。
自分がおよそ貴族らしくないことをしている自覚をしているからこそ、現状の宮廷の問題点もよく見える。
現在の昊は問題が山積だ。それを自覚している貴族はどれだけいるのだろう。劉瑯でさえおそらくは気付いていない。
自分が貴族でも異端だからこそ見えるものがある。
「……今のままでは、昊の宮廷は中から腐って落ちるな」
それをわかっていながら、何もしないままではいられない。
自分でも因果な性格だとは思うが譲れない線というのはやはりある。
どうするべきか――迷っているときにその怪しい人影を見つけたのだった。
貴族でないのは一目で知れた。宮廷御用達職人の一人だろうか。さすがに職人の顔までは覚えきれない。
納品専門の人間もいるし意外と宮廷を出入りする一般人は多いのだ。
はじめは迷子かとも思った。羽兎の娘など致命的な方向音痴だ。
「宮廷だけだ」と言い張るが泰斗にはどうにも信じられない。
ともかく、そのくらいの方向音痴が存在することは知っているので道を教えるくらいなら、とも思っていたのだが。
人影の動きには隙がなかった。何かを探るような視線。玉砂利の道を足音も立てずに歩く。
それは何か目的あってのことのように思えた。
気配を殺し、暫く観察する。相手はこういった事に慣れているように思えた。周囲を確認する鋭い視線。
探しているものは容易に想像ができた。門番を通さずに宮廷に入る道だろう。
宮廷の塀にはそのような穴は存在しない。……もっとも武官たちが怠慢をしていなければだが。
しかし、泰斗が今使っている抜け道がばれるのも困る。
ぎりぎりまで様子を見――泰斗は相手が呟くのを聞いた。
「……馬鹿げた話だ」
戦慄する。この男は、武官の怠慢に気付いている。気付いていて内側から崩すことを狙っている。
もしや――いや、想像が正しければ、此処で止めなければ。
「何が馬鹿げた話だ?」
声を上げると相手の男が振り返った。
やはり、貴族ではない。宮廷御用達職人としても有名な人間ではない。
顔に見覚えはまったくない。けれどもその隙のない動きと服の下に隠された運動能力は一目見ただけでわかる。
並の武官と遜色なく動けるはずだ。
尚更、なんとかせねばと泰斗は思う。
「貴族ではないな。お前のような顔は見たことがない。こんなところで何をしている?」
凛とした声を響かせると、男は少しの間の後、言った。
「職人の作ったものを届けに来た帰りだ。道に迷ったらしい」
「それはまた、随分な方向音痴だな。此処で会ったのも何かの縁だ。出口まで案内しよう」
「いや、……貴族様の手を煩わせることではないゆえ、捨て置いてもらえれば」
「それでは武官や貴族たちの面子が立たぬのでな。遠慮することはないぞ」
裏の意図を悟らせないように笑みを浮かべるが、相手の表情は動かない。
元々無表情なのかそれとも表情を消しているのか。
「……では方角だけを教えてはいただけないか。後は自力でなんとかする」
「それではまた迷子になってしまうだろう。門まで送ろう。なに、遠慮はいらぬ。それとも」
泰斗は不敵な笑みを浮かべた。
「何か、このあたりに用事があるのか? 事と次第によっては武官を呼ばねばならぬな」
慧は今日ほど自分が口下手であることを呪ったことはなかった。
相手はたかが貴族、簡単に丸め込めるだろうと高を括っていたこともある。
しかも、この相手は自分の探しているものをわかっているような口ぶりだ。
素直にここは引くか、いや、引いても人相を覚えられたら以後警戒が強くなる可能性もある。
「何か、このあたりに用事があるのか? 事と次第によっては武官を呼ばねばならぬな」
笑みを浮かべて尋ねる貴族に慧は袖口に隠しておいた匕首を確認した。暗器の一種だ。
顔を覚えられたら面倒だ。いや、この相手は確実に自分の顔を記憶して、警戒を強くする。
それだけの能力があるはずだ。
――誰も見ていない。この場で口封じをするのが慧にとっては一番楽だ。
仮に刀を抜いてきたとしても、それを振るう前に物が言えぬようにする自信がある。
もう一度、匕首を確認すると、慧はそれを引き抜こうとし――。
「……どうかされましたか、貴方ほどの人がこのようなところで」
不意に第三者の声が聞こえた。慧と貴族はそちらを向く。
「第三級武官、燕尭か。私はたいした用事ではない。少々不審な一般人がいたものでな、話を聞いていた」
「おや、名前を覚えていただいていたとは光栄ですね」
第三者――燕尭は快活に笑う。
「お前の腕前は宮廷中が認めるところだろう。名前くらい覚える。それに、私は少々お前に興味があるのでな」
「ほお、興味ですか。それは尚更に光栄です。
ああ、劉家と洪家の争いにまざるつもりはありませんよ。正直に言ってああいうのは苦手でして」
「お前に興味があるのはそこだ。宮廷で中立を宣言している家などそうそうないからな。どうしても注目せざるを得ない」
「はは、変わり者なだけですよ」
燕尭は笑うが、貴族の男の目が笑っていないことは部外者の慧にもわかった。どうやら貴族にも色々といるらしい。
「――貴方の手を煩わせるほどのことでもなさそうですね。
この男は武官として俺が預かりましょう。どうせ、ただの迷子か物見遊山でしょう。危害はなさそうだ」
慧は何も言わない。二人の貴族の様子を伺うだけだ。
貴族の男は少し考えてから一つ息を吐いた。
「では、お前に一任しよう、燕尭。この男のことは頼む。私は大人しく戻ることにする」
貴族は大きく溜息をつくと首の後ろを掻きながら正規の宮廷の門へと歩いていく。
燕尭という男は慧を捕縛することもなく、黙ってその後姿を見ている。
「――ああ、燕尭」
貴族は暫く歩いてから思い出したように歩を止めた。振り返る。
「お前に対しての興味はもう一つある。――お前は、隣国、暁に関しての知識が豊富すぎる。
証拠が揃い次第、お前の部屋を確認することになるだろうから、早めに足を洗っておけ」
「……それは初耳です。気をつけましょう」
「うむ。忠告はした。後はお前次第だぞ」
それだけ言うと今度こそ貴族はまっすぐに歩き去った。
慧は貴族が残した言葉を胸のうちで反芻してから燕尭を見る。燕尭は深い溜息をついた。
「君が、慧かい? 連絡が来てから随分と経っているんでね、どうしたものかと思っていた」
「……お前が宮廷内での協力者か」
「まあ、そうなるね。ああ、暗器は隠すように。君はどうやら血の気が多そうだ」
「口を封じるほうが話は早い」
「腕は確かだとは聞いているんだがねえ、色々と問題がありそうだ」
やれやれ、と肩を竦める燕尭に慧はむっとする。やはりこの国の貴族は好きになれそうにない。
「まあ、立ち話もなんだ、俺の部屋へおいで。そこで話を聞こうか」
歩き出す燕尭に慧は迷ってから付いていく。
――不穏な計画が、ゆっくりと動き出す。
―終―
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